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新しい秤

これはキッチンで35年間使っていた秤。いろんなものを量ってきた。ここ数年、精度がだんだん疑わしくなってきていたけれど、さして支障もなかったのでずっと使い続けてきた。

ところが、昨冬辺りからどんどん太り出してきたルーシャのダイエットを始めてから、エサの量をもう少し正確に量りたいと思い、夫と相談してやっぱり新しい秤を買おうということになった。人間が食べるものよりネコが食べるものを正確に量るため、という動機がちょっと笑えるが、かくして35年間お世話になったアナログ秤とお別れすることに。使っていたときは、もちろん特に何の感情もなかったけれど、いざおさらばと思うと何だか手放しがたい。夫は、じゃあとっといたら?と言うけれど、器もひびが入っているし、それじゃあ新しい秤を買った意味がない。

で、こっちが我が家の新しいデジタル秤。竹製でこぢんまりしている。器を載せた後に左側のボタンを押せば、ぱっとゼロにメモリを合わせられるところが嬉しい。おかげで朝一番にルーシャにエサをあげる夫もきちんと量を量るようになった。これで冬の間、やることがないからエサをねだりに来るルーシャに厳しくダイエットさせられる。

森の中は今、キノコだらけ。でも、どれも食べられる代物ではなさそう。緑が目に鮮やかな苔の絨毯から小さなキノコがにょきにょきと生えているのは何とも愛らしい。夫と一緒でなければ半時間くらい、ハイキング道の脇を行ったり来たりして、苔むした森やキノコの群れに見惚れているかもしれない。

近所の塀に絡まる蔦の葉も赤味が増してきた。日が短くなり、気温が下がっていくのはすごく寂しいけれど、秋の味覚や黄葉・紅葉は楽しみだ。もう少し晴れ間が多くなってくれると、ハイキングももっと楽しくなるのに。

 

 

 

 

 

秋の始まりはアルプスと森にて

汗だくの農家訪問を終えた後は、久しぶりに会う友人知人との時間をしばらく楽しみ、それから9月初旬のハイキング休暇まで仕事に追われた。その間も、気になる山の天気予報を何度も見てはため息をついていた。曇りやら雨のマークばかりなのだ。でも週間天気予報はあまり当てにならない。ましてや、山の天気は変わりやすい。と自分を慰めているうちに、天気予報はだんだん上り坂になり、休暇を終えてみると結局全日雨になったのは1日だけ。着いた日は真夏のような暑さだったし、最後の土曜日もまた汗をかきながらのハイキングになった。

到着日は催し物があって車両通行止めになるというので早めにグリンデルワルトに到着。トライヒラーと呼ばれるカウベルを鳴らす団体がいくつも集まってパレード

ロープウェイに乗ってフィルストまで行き、そこから1時間くらい歩くともうバッハアルプゼー。この辺りでは牛もたくさん放牧されていて、アルプケーゼと呼ばれる高山で作るチーズも作られている

かの有名なアイガー北壁、メンヒ、ユングフラウを目の前にかしこまるクライネシャイデック

行き先はベルナーオーバーラントのグリンデルワルト。30~40年前は日本人観光客であふれかえっていた場所だ。今はインドや中国、韓国、中東からの観光客が多そう。出発する数日前に、国営テレビのある番組でちょうどグリンデルワルトやインターラーケンのオーバーツーリズムについて報道していた。その中で、グリンデルワルトに住むある高齢の女性が「日本人たちが勝手に私の庭に入り込んで、写真を撮ったりしていくのよ!」と怒っていた。でも、それを聞いた私も怒った。それは絶対に日本人じゃないと思ったからだ。その時は、今の円安じゃあ誰も日本から観光に来ないよ、と思ったし、来ていても日本人はまずそんな無礼なことはしない。と思う。長年グリンデルワルトに住んでいるのなら、そのくらいのことは知っていて欲しい、と思った。

ブスアルプまでバスで上り、帰りは徒歩で。あちこちでまだ牛がのどかに草を食んでいる

ブルーベリーかな?葉っぱが赤く色づいて美しい

そういう話をホリデーアパートの家主の女性にしたら、彼女は「私たちは日本人と他のアジア人を区別してるのよ」と言う。正直、嬉しかった。

話は少し飛んで、今週は泊りで3日間、毎年恒例のフォレスター研修の仕事へ行っていたのだけれど、そこでも同じような話を聞いた。いつもお世話になるドライバーさんと雑談していたら、彼もやっぱり日本人はとてもきちんとしていて、ほかのアジア人と全然違うと感心していたのだ。私から見ても、若い人もみんな礼儀正しいし、レスペクトを感じる。

さて、話をグリンデルワルトに戻すと、初外食の夕食は村はずれにある山小屋風の小さなレストランでピザを注文。丁寧に手作りしているのが分かる品で、応対もよかった。次の日はインドレストランがあるというのでそこへ行ってみた。で、がっくり。まさに観光地の味と対応。やっぱり国際的な観光地ではこんなものか…と残念に思ったけれど、その後もいくつかレストランに入った後の感想としては、ここ以外はどこも美味しく、親切な応対だった。例の家主さんにインドレストランの話をしたら、顔をしかめて、定期的に店で働く人が変わるのよねと言う。人材をインドから一定期間連れてくるのだろう。スイスにあるイタリアンレストランではウエイターが全員イタリア人ということも少なくないけれど、だいたいみんな愛想がいいし、もちろん美味しい。ここのインドレストランでは人がスレているというか、仕事に対する情熱が少しも感じられなかった。

グリンデルワルト周辺では、山の中腹やてっぺんにあるレストランでも、えっ!と思うようなハイレベルもあり、意外な一面を垣間見た。交通機関で簡単に行けるクライネシャイデックやメンリッヒェン周辺は観光客が多くにぎやかだが、反対側は日本によくあるような人工物に頼る観光地になってしまったフィルスト周辺を除けば、ブスアルプやグローセシャイデックは静かで、のんびりとハイキングを楽しめる。

1週間たっぷり歩いて家に戻り、もう1週間自宅でのんびり過ごしたかったけれど、フォレスター研修の前に片づけなければならない仕事が2つできて、結局ほぼPCにかじりつきっぱなしだった。それを片付けた後は研修の準備。そうしている間になんだか体調がおかしくなり、食事の量を抑え、横になったりして体と頭を休めるようにし、何とか研修に向けて出発。そういう話を研修の後半を担当するもう1人の通訳の女性にしたら、翻訳って神経使うんだねぇ、と言われ、今まで考えたこともなかったけれど、時間がかなり限られると、なるほど確かにそうかもしれない。

今年の10月初旬は寒く、雨も多い。研修で学生のみなさんも体調を崩さないか、ちょっと心配だ。まぁ、私よりいくつも若いから大丈夫かな。でも、30度の日本から10度のスイスへ、そしてまた1週間後には30度の日本へ、はキツそうだ。昨日は森も北風が強かったかもしれない。前半は土砂降りのときもあった。今はみなさん、もう帰りの飛行機の中。1週間のスケジュールを無事終え、ほっとしている頃かな。お疲れさまでした。

スイス一のっぽのダグラスを見に

スイスの農家の意外性

お盆の前後、スイスの農家の視察・ヒアリングに同行して通訳をさせていただいた。事前に訪問先を見繕い、アポイントを取る。農業関連の通訳の経験はあるものの、もう十何年も前の話で、その時はアポを取る必要もなく、ただ同行して通訳をしただけだった。

先輩通訳から訪問先探しの情報をもらうと同時に、家の近所に適当と思われる農家がたまたまあり、たまたまネットでメールアドレスも見つけたので連絡を取ってみたところ、すぐにOKの返事が来た。中山間農家も訪れたいとのことだったので、ウェブサイトを設けている近くの山間部の農家にいろいろと当たり、紆余曲折はあったものの、チューリヒ州での訪問先は比較的早く決まった。

残るは土曜日に訪れたいベルン州の農家。1軒はすぐに決まったが、最後の1軒がなかなか見つからない。夏休み中でもあったし、穀物や飼料になる草の刈り入れなどで忙しい真っ只中でもあったからだろう。5~6軒に断られたが、どこも受け入れたいけれどスケジュール的に無理だという返事だった。明らかに関心なしというのは唯一、「俺はそんなことはやらん」と言い放って、私がまだしゃべっている途中でがちゃんと電話を切った男性のみ。皆さん、寛容なのに実際驚いた。

いくつかの農家で「どうしてこんなに簡単に引き受けてくれたの?」と聞くと(農家ではすぐに名前で呼び合い、打ち解けた話し方になる)、「面白そうじゃない。それに、日本の農業についても話が聞けるかもしれないし」という答え。忙しい最中に訪ねているのに、どこでも温かく出迎えてくれて、延々と続く質問に丁寧に答えてくださった。

自分自身も若かりし頃、外国の農場で働いた経験を持っていたり、子どもたちが外国での労働経験をしていたり、という農家も珍しくないようで、中には英語がペラペラの人もいた。今回いろいろな農場へ行って、目からうろこの思いだ。

また、これまで農家はただ牛を飼ったり野菜や穀物を栽培しているだけだと思い込んでいたけれど、直接支払いなどの支援金を受け取るための事務的な作業もたくさんこなさなければならないし、みなさんの話を聞いて農業従事者と世間一般の考え方のズレがどういうところにあるのかも理解できたような気がする。私自身、いろんな意味でとても勉強になったお仕事でした。

今年はかわいい朝顔がいくつも花を開かせた

読むということ

スイスにやって来た前世紀末(!)ごろは、メディアと言えばもちろんペーパーしかなく、日経や朝日などの新聞はキオスクなどで買えたもののかなり高額で、日本の活字はとても貴重な存在だった。勤め先の日系企業でもらう新聞や雑誌、日本で買って持ち帰った書籍も友だち同士で回し読みしたものだ。一時帰国の際の飛行機の長旅では、無料で配布される日本の新聞が楽しみで、どの記事も隅から隅まで読み漁った。

今や、新聞も書籍もデジタルの時代となり、飛行機では新聞はもう配布されず、配布されたとしても私はもう映画ばかり見ていて、新聞にはちらりと目をやる程度かもしれない。日本の書籍も、以前は新聞で見かけた広告に食指を動かしては買い求めていたが、今ではほとんど買うことがない。

その理由の1つはおそらく翻訳業という今の仕事ではないかと思う。朝、事務机に座る前、その日のスケジュールに合わせて1時間なり2時間なりキッチンのテーブルでチューリヒの新聞に目を通す。その後もまた、翻訳という仕事をするからには何かしらの文章を読むことになる。通訳の仕事の前にも、その準備でいつも何かしらの資料を読む。読むという作業をしないのは買い物へ行っている間、食事の支度と食事中、後片付け、そしてTVで夜のニュースや刑事ものの番組なんかを見ている間だけ。文字に接している時間はかなり多い。そして、就寝前に20分なり30分なり、自分が読みたいと思って手に入れた本を読む。この時間は少し集中して読書できるが、朝の新聞やほかの雑誌をめくっているときは、この数年間あまり集中して読めなくなったような気がする。特に急ぎの仕事がなくても、何となく気がせく。こんなに読むことに時間をかけていられないといった気がする。画面で追う文字は、これまた集中して読みづらい。長い文章は紙に印刷して、腰を据えて読むようにしている。

読みたい本を読む時間があまりないため、ここ数年は1年に数冊あればこと足りるようになってしまった。新聞などで「あ、この本読みたいかも」と見つけたものをメモしておき、誕生日のプレゼントとして義妹や義母に買ってもらう。昨年はスイス文学賞やドイツ文学賞を受賞したKim de l’Horizonの『Blutbuch』と、実在した女スパイの活躍を追うという興味深いドキュメンタリーをおねだりした。Kim de l’Horizonはノンバイナリーで、私はこの本を読んで初めて彼らの深い苦悩を知った。たまに電車の中などで、上は背広、下はスカート姿のひげのおじさんなんかを見かけることがある。それまでは「ちょっとおかしな人」としか思っていなかったけれど、そうではないことを理解させてもらった1冊だ。言葉を含むさまざまな文化が土地を移動するにしたがって少しずつ変化していくように、性も男女の間でいきなりぱっと変わるのではないのだろうと思う。文化の異なる国へ車や列車で移動できるスイスにいると、そんな風に思う。

日本の書籍の方は、友人が貸してくれたり姉からもらったりするものがもうほとんど。そういう本はひょっとしたら自分では選ばないものかもしれないので、新鮮に感じることが多い。そして、日本の本を手に入れてしまうと、やっぱりドイツ語の本をほっぽり出してそちらになびいてしまいがちだ。先日、引っ越しをするから本棚を整理したいという人から一挙に何冊も日本の本を分けてもらった。当分は、今年の誕生日に義母からもらったシュテファン・ツヴァイクの『Schachnovelle』になかなか手が伸びないかも。

春から初夏にかけてはスイスでも雨が多い。風さえなければ、雨の日に歩くのも一興だ

5年ぶりの日本滞在

椿の花があちこちに。久しぶりに見られて嬉しかった

2週間の日本滞在は、まさに瞬く間に過ぎた。甥っ子の結婚式やら母の喜寿のお祝いやら、数十年ぶりの幼馴染との再会やら、楽しみがたくさん詰まっていたからだろうか。

家族全員の顔を見て、5年の間に一挙に5人も新しく増えた若い命に触れ、たくさん笑って、少し泣いて、みんなの優しさや明るさに頬は緩みっぱなし。母は5年前と少しも変わることなく、軽いフットワークで私をたびたび驚かせた。最後の夜、同じような辛い経験をした母の口から出たことば「二人でよくがんばったね」。今思い出しても目頭が熱くなる。涙をこらえきれなくなった私ともらい泣きする夫を前に「どうしたの!」と笑う母に、今まで知らなかった強さを感じた。

挙式した地元の神社に人知れず咲く梅の花

普段ほとんど連絡を取らず、それぞれの生活に没頭している母娘だけれど、あの一言になんだか母親という存在の根本的な愛を感じた。そんな母を囲む仲のいい姉と妹、孫とおばあちゃんもとっても仲よしの賑やかな姉妹一家、見ていてとても羨ましくなる。自分たちで築き上げた家族の形だ。

 

 

 

実家にいる時間はあれよあれよという間に過ぎ、成田から帰りの飛行機に乗る前の小旅行の目的地、伊豆へ向かう。1泊目は天城の山の中の温泉。普通の部屋を予約していたのだけれど、「わざわざ外国から来てくださった」と特別室に変えてくださった。

二部屋もあるゆったりとした、選び抜かれた材質をあちらこちらに感じる歴史深い空間は、私たちには不釣り合いだったかもしれないが、まだ春も浅く、ひと気の少ない宿で露天風呂も楽しみ、くつろぎのひと時を堪能させていただいた。まだ枯れ枝の多い中庭からは鶯の鳴き声が聞こえていた。

 

 

2泊目と3泊目の西伊豆へ移動する前に、念願のわさび畑へ。時期ではないので段々畑の訪問は断念し、浄蓮の滝のほとりにある小さな畑を訪れる。日陰の寒そうな場所で数人の男性が丁寧に根と茎を切り分けている。観光客はまばらだ。小さなお店で生わさびと葉っぱの詰め合わせを買う。

伊豆ではスイスでなかなか口にできない魚の干物や根菜、新鮮な海の幸をたっぷりといただいた。三日三晩、和食尽くめなんて、生まれて初めてのことではなかろうか。

西伊豆は茜色に染まる夕陽が売りだ。天城を後にして海辺に着いたときは晴天だったのに、夕方には雲が空を覆い出し、夕陽は見られず。翌日は天気予報通り、朝から雨、雨、雨。茜色は見られずじまいか…とあきらめていたら、なんと強風をともなう雨の中、海の向こうが茜色に染まり出した。こんな風景があるんだ…と雨に打たれながらその眺めを携帯に収める。

天城の山から西伊豆の海辺に着き、チェックインを済ませた後、辺りの探索にと車で山道を北上し、もうすぐ戸田という頃に突然夫が叫んだ。「あっ、ほらほら!」正面を見ると、目の前に雪を抱いた富士山が大きく浮かんでいた。そのあと山や森の後ろに見え隠れしていた富士山が次に私たちを驚かせたのは眼下に戸田港が見えたとき。湾に浮かぶ数隻の漁船と一緒に額の中に収められた絵のような富士の姿が現れた。海の向こうに見える富士山は初めてだ。よくもまあ、こんなに美しい姿ができあがったもんだとつくづく思う。

西伊豆では3軒のカフェに立ち寄った。そのどれもが比較的年配の方々が経営しているもので、今風の洒落たカフェではなく、ものすごく独特な空気に満ち溢れるものばかりだった。手作りのカレーの匂いが漂うカウンターに座ってネスプレッソをいただきながら、50年カフェを続けているという女性オーナーとおしゃべりしたり、その昔、沖合に停泊していた客船スカンジナビア号の歴史を伝える店内を見て歩いたり。テーブルの数より草花の方が多いんじゃないかと思うカフェでも一休みさせていただいた。どのお店でもコーヒーがおいしいのに正直驚いた。

もう一つ驚いたことがある。短大時代に2年間過ごした三島でレンタカーを借りたのだが、南出口辺りをうろうろしていたときに、やたらと西洋人やアジア人の姿を見た。日大にこんなに留学生が来ているのか?と不思議に思ったのだけれど、辺りを見回してみると、ウン十年前にはなかったバスターミナルができていて、そこには河口湖行きのバス停も。これかぁ。富士山の人気は私も聞きかじっていたけれど、ここからみんな河口湖を目指すんだ、きっと。三島も変わったもんだ、と少々感激。

そして、帰省最後の感激。これは空の上で待っていた。

どの辺りを飛んでいたのか、ずっと映画を見ていたのでまったくわからない。乗務員の方が「オーロラが見えていますよ」と教えてくれたので、窓の外を見てみると緑色の光がちらちらと見える。それから1時間近くは経っていただろう、私はずっと窓にへばりついていた。緑色の光はだんだん強く、大きくなって、くっきりと見えるようになった。映像は低速度撮影なので、実際より動きがはっきりしている。テレビでよく見る、カーテンのような光のダンス。出発前はいろいろと心配することもあったけれど、大きな事故も病気もなく、矢のように過ぎていった日本滞在は、空からの素晴らしい贈り物で締めくくられた。

スイスに戻ってはや1週間が過ぎ、あの2週間は何だかもう遠い昔のように思える。

3月初旬の伊勢神宮は北風が強く、まだ寒かった。でも、シンプルな美しさは変わらない