頭まで節電?

秋から心配されていた冬の電力不足は、無事に年が明けた今もまだそれほど切迫していない。秋も暖かく、冬になっても暖かい日が多いせいもあるのだろう。

それでもクリスマスのイルミネーションを控えるところが多く、おらが村も毎年幹線道路を飾るイルミネーションを自主的に取りやめたよう。いつも明々と各家庭のバルコニーを飾る電飾も、例年より少し少ないかな。まるで義務化されているとでもいうように揃って外を明るく照らすイルミネーションが嫌いな私は、かなり嬉しい。でも、例年より少ないと思っていたのは、うちの窓から見える範囲内だったようで、見えない方を歩いたらどのバルコニーもぴかぴか光っていてがっくり。あれは野生の動物たちにも迷惑だろうし、夜空の星も見えにくくなる。少しのイルミネーションなら私のクリスマス気分を盛り上げてもくれるのだろうけれど、どこもかしこもピカピカはいただけない。

12月に一度厳寒が訪れて雪が積もったきり、クリスマス前からいつも通り暖かくなり、今や20度なんていう記録的な暖かさ。これもクリスマス気分や新年気分を邪魔しているのか。今年は何となく、いつもにも増してそういう気分にならない。どちらかというともともと節電派だけれど、政府の呼びかけで頭まで節電されたのかも。昨日はチューリヒ空港の近くの山を歩きに行った。初めての場所で、歩き出してすぐに思わず声を上げた。小さな沼に映る枯れ木が魔法の鏡にでも映ったかのようにくっきり。少しの揺れもない。こんな心で1年、と言わず、ずっと過ごしたいものだ。

災い転じて福となす

ヨーロッパは節電の波に飲み込まれようとしている。ウクライナ侵攻と猛暑・寡雨の夏に端を発するエネルギー不足でこの冬は厳しくなるとの予想がされており、各国政府は対策に追われている。

スイスも例外ではなく、連日、新聞やテレビでは節電に関するニュースが絶えない。スイス政府自ら国民に節電・節水を訴え、具体的には何をすればいいのかという細かい対策も発表した。「人がいない場所の電気は消す」とか「室内の温度を下げる」とか「体を洗っている時はシャワーを止める」とか、なんだか当たり前のこともたくさん掲げられている。こんなことまで言わなければならないということは、こういうことをやっている人が多いということだろう。なんと恵まれた環境なのだろうと、逆に思う。

私は明治生まれの祖父や大正生まれの祖母と一緒に暮らしていた。比較的恵まれた環境に育ったとは思うけれど、決して贅沢はしていなかった。私のちびちびした性格もあるのだろうが、祖父母と一緒に育ったことも、あまり無駄遣いをしないようにと思う人間になったことに大きく関わっているような気がする。

今、新聞やテレビが訴えている行動は、本当は節制でもなんでもなく、ごく当たり前のことなのではないか。有限の資源を無駄に使うこと自体が誤りなのだから。

冬にセントラルヒーティングが止まるかもしれないからと、単体の暖房器具や暖炉用の薪を買ったりする人が増えているという。危機感が広がり出している。自然の脅威を見せつけられたコロナ・パンデミックが少し収まった後の今回の危機は、均衡を失った自然の歪みに人為的なものも加わって発生したものだ。いずれにしても、今後は今以上に電気が必要になる。今こそ我が身を振り返り、普通に倹約をする生活に立ち戻る絶好の機会なのではないだろうか。モノがあふれた世の中でまだモノを追い続け、大切なものを見失った私たちを立ち止まらせてくれるときではないのだろうか。

我が家の花壇は隠れ野菜畑

今年の9月15日でこの庭付きアパートに引っ越して10年になる。あっという間の10年。

10年経つと庭の様子もずいぶん変わる。当初は好きな花を花壇に植えて、でも花と花の間には十分距離を取ってさっぱりした花壇にしたいと思っていた。真ん中に小さな丘を作ってそこに南欧風のテラコッタの壺を寝かせ、その周りを背の低い花で囲み……。

年月とともに自分で植えた花も少しずつ増えていったけれど、どこかから種が飛んできて立派に育つ花も少なくない。わやわやと芽が出て葉っぱが出てくると、なんだか引っこ抜くのも気が引ける。とりあえず花が咲くかどうかを確かめて、あまりにも雑草っぽいものは悪いけど花壇から出て行ってもらう。

そんな風にしていたら、花壇は最初のプランと大幅にずれ、今やまるで野放しに近い状態になってしまった。おまけに、春に撒くコンポストもどきから毎年いろんな野菜や果物が育つ。これまで小さなハーブ園にマスクメロンがなり、花壇からじゃがいもが採れ、去年芽を出したフランボワーズが今年実を作り、今年はオレンジ色のカボチャがすくすくと育っている。周囲のアパートの住人は、こやつはいったい何をやっているんだろうと呆れながら花壇を眺めていることだろう。

失敗したのは、去年買った葉わさび。数年前に見つけていつか買おうと思っていた。東北出身の友人によるとこれは葉わさびのようだけど、説明書きには根を食するとある。しばらく育ててから根を掘ってみようと思っていたら、今年の春枯れてしまった。水を大目にあげるというふうにネットで読んだので、そうしていたら根腐れしてしまったようだ。根が腐ってしまったということはもう救えないんだろうなぁ。残念。チューブや粉じゃない、新鮮なわさびの味を夫にも楽しんでもらいたいと思ったけれど、だめだった。もともとわさびはあまり使わないし、当分再挑戦はしないかな。

今年は異常に暑く雨の少ない夏だったせいか、とんがり頭の白いあじさいの色が今一つだ。春の真っ白な花が、季節の移り変わりとともにイチゴミルクのようになり、最後には赤く染まるのが、今年は茶色がかった、あまりきれいとは言えない色合いだ。

春の咲き始めは純白の花だった。二株だけなのに、やたら大きく育ってくれて、遠くからでもよく見える。時折、道行く人が「きれいですね。目の保養になります」と声をかけてくれる。夫も自慢げだ。

その下に隠れるように花を咲かせる丸い方のあじさいは、今年は1年中せっせと根元に撒いていたコーヒーかすのおかげで青い花をたくさん開かせた。花の数が多くて驚いたけれど、それにも増して濃いブルーが思ったより美しくてうれしくなった。本当は日本にあるような淡いブルーにしたかったのだけれど、これはここの土では難しそう。この青というか紫というか、盛りが過ぎて色が褪せてきたときにこれまでに見たことのない人工的な青に変わって、「へぇ~」と驚くやらうれしいやら。

自然は人間の思い通りにはならなくてがっかりさせられることも多いけれど、こんな風に思わぬ贈り物も届けてくれる。

 

通訳の世界の変化

…と題してみたけれど、実のところ、通訳にはもうほとんど携わっていない。2年前に始まったコロナ・パンデミックの影響で、日本からスイスを訪れる人は観光でもビジネスでもほとんどいなくなったからだ。役場での結婚式の依頼が数件あったけれど、コロナが最高潮の頃はどれもお断りした。

今はまた少しずつ国際的な往来が増えつつあるようだ。春に帰国を決めた知人・友人は少なくない。仕事で来瑞するという声も聞き始めた。

でも、パンデミックの間に会議はオンラインが主流になり、オンライン通訳を求める声が増え出したのも確かだ。どこからともなく舞い込むPRメールもオンライン通訳募集のものがちらほら。たまにいただく問い合わせもオンライン。現地訪問もこれからまた増えてくるかもしれないけれど、ネットの発展を見ていても、オンライン通訳の需要はやはり高まりそうだ。私は生身の人間同士の間で動く方が好きだけれど……。

春は天気の変化が目まぐるしい。20度近くにまで気温が上がったかと思うと、また雪が降ったり、突風が吹いたりする。今はまとまった降水の後で緑がみずみずしい

歩きながら思うこと

久しぶりに緊張の1週間を過ごした。仕事は2件だけだったのだけれど、私の見積もりでは両方とも納期が少し厳しく、1件は内容も込み入ったものだった。なので今週はろくに新聞も読まず、お昼も夕食もあまり時間がかからないメニューにし、外出は買い物をさっと済ませるのみ。今日のお昼に2件目の仕事を納め、ほっ。いつもそうだけれど、あとはクライアントに満足してもらえる出来であることを祈るのみ……。

今朝はシャワーも浴びずに仕事に取り掛かり、結局お昼の納期ぎりぎりまで続いたので、昼食の後にシャワーを浴びてから買い物がてら1時間のウォーキングへ。久々にまとまった時間を歩く。空には雲が多いが、明るい。今朝うっすらと積もっていた雪はほとんど溶けていて、舗装されていない野道にはぬかるみも多い。夫と歩くと、避けて通りそうな道だ。週末は車で少し遠出をして歩きに行くので、泥だらけの靴で車に乗って、座席の下が汚れるのを嫌うからだ。

でも、私はこんな道を歩くのも好き。子どもの頃を思い出す。大通り以外はまだ舗装されておらず、雨が降ると水たまりがあちこちにできた。傘を持っているときは、歩きながら先端を水たまりにつけてずるずると引きずり、その部分だけ土が巻き上がって濁るのを見るのが楽しかった。ぬかるみにぴちょぴちょと靴がくっつく感じも好きだ。靴が泥だらけになるかなと思いながらも楽しみながら速足で歩く。

畑や牧草地を過ぎ、街中に入った時、ふとチェコ製の車、シュコダが停まっているのが目に入った。先日、スイスでいま最も売れているのはテスラとシュコダという新聞記事を読んだことを思い出す。これは何ともスイスらしい現象だ。テスラは言うまでもなく、高級電気自動車。そしてシュコダは安価で丈夫な大衆車だ。これが1位と2位を占めている。矛盾しているようだけれど、スイスにはやっぱりお金持ちが多いこと、富裕層が「札束」を見せびらかさないこと、国民の環境に対する意識が強いこと、良いものは皆がブランドに関係なく選ぶことを示している。車の売れ行きにも国民性は表れるのだ。

週末の散歩の帰り、ときどき家の近くの湖に寄って焼き栗を買い、岸辺で一休み