月: 2015年9月

実りの秋

昨日の最高気温は12度。もうすっかり秋だ(というより、もはや冬の格好が必要)。秋といえば、味覚の秋。クリはまだ出ていないけれど、鹿肉が店頭に出だした。我が家では、私が食べないので、夫はどこかですでに料理されているものを買うか、外で食べるしかない。年に1回かせいぜい2回食べるくらいだろう。かわいそう……かな。今年もデパートで鹿肉料理を買おうとしたけれど、もうすぐ山岳地方へハイキング休暇に出かけるので、そのときの楽しみに取っておくことにしたそうだ。 そう、このハイキング休暇は私たちにとって初めての週単位のスイスでの休暇。物価が高いし、夫はとにかく海へ行きたがるので、スイスで休暇に出かけることはなかった。秋のエンガディンはカラマツが金色に輝いて美しい。その風景をぜひ一度見たいと思って提案したら、すんなり通った。ちょうどいい時期に当たって、天気もいいといいんだけど。久しぶりに会えそうな人もいて、とても楽しみだ。

ギリシャでの夏休みが終わった後は仕事もそれほど忙しくなかったので、まだ休暇モードのままたくさん人と約束をして過ごした。そんなある日、30代と40代の日本人女性を招いてうちでランチ。エネルギッシュで、これまでにもいろんな経験をし、これからもますます経験を深めていきそうな二人。そんな彼女のたちの話を聞いて、サボり気味だった私の心にもエネルギーが満ちてきた。

そして、この数日間はいろいろな仕事に忙しくさせてもらい、新たにまたいい出会いをさせていただいた。人と出会うこと、人と話すことって本当に自分を豊かにしてくれるんだと実感。ものすごいプレッシャーで赴いた仕事も無事に終わり、今、秋の日差しが差し込む部屋でちょっと一息。でももう今日も半日終わってしまう。そろそろ仕事に取り掛かりましょうか。

露なのか、芝生も葉っぱも湿っている。ラベンダーもまだ花を咲かせていて、湿気のせいか香りが強い

露なのか、芝生も葉っぱも湿っている。ラベンダーもまだ花を咲かせていて、湿気のせいか香りが強い

マルセル・ジュノーと難民申請者

日本が安保法案や東京オリンピックのエンブレム問題で騒然としている一方で、ヨーロッパはアフリカやバルカンを逃れてくる大量の人の波に飲まれつつある。私たちがサントリーニでのんびりとしている間にも、同じギリシャの島コスに大勢の人々が上陸していた。今は電車で、バスで、フェリーで、そして徒歩で、何万人という人々が安全やより良い暮らしを求めて、特にドイツを目指している。

スイス政府も大勢の難民申請者が流入すると見込んで、その準備を進めているようだ。また1年前くらいに、人道支援組織が一般家庭に難民を受け入れてもらうという案を出し、これまですでに500件以上の申し込みがあるという。スイスでは州ごとに法律が異なるため処理が煩雑で、実際に受け入れまで進んでいる家庭はまだ数えるほどだが。

今は難民申請者の大幅な増加もスイス国内ではまだ見られていない。それでも、NGOなどにボランティアの問い合わせが殺到している。ハンガリーで足止めをくらい、やっとのことでドイツに入国した難民申請者たちは、地元の人々の大歓迎を受けた。死と隣り合わせの長旅を終えられただけでも、彼らの安堵は計り知れない。その上、温かく迎えてもらってどんなにほっとしただろう。

昨日、原爆投下後の惨事が広がる広島にいち早く入り、被害者の支援に当たった赤十字国際委員会のマルセル・ジュノー博士の半生を描いた日本のアニメを観た。執拗な粘りで戦争当事国の責任者の心を動かしていくジュノー博士。そんな行動の根元にあるのは「愛」。そして「勇気」だ。世の中のために何かをしたいと思うとき、欠かせないのは「勇気」だ。それを出すのは難しい。保身に回っては絶対に出ない。程度に差こそあれ、自分や家族の犠牲も厭わない思いがなければ、実際に行動に出せないことが多いと思う。

夕食のとき、夫が「うちでも一人引き取ろうか」と言いだした。それが冗談半分ですらなく、頭からその気などないことはわかっている。2人住まいには十分広いアパートだが、まるきり違う習慣の中で暮らしていた人、体や心に傷を負っているかもしれない人との同居はそれほど容易いことではないからだ。それこそ、多くの時間と辛抱をその人のために費やすという犠牲を覚悟しなければならない。私たちにはその準備がない…。

そのあとの夜のニュースで、スイスのある村に住む難民申請者たちの話が取り上げられていた。村の人がボランティアで彼らにドイツ語を教えたりし、難民申請者は村人の畑仕事を手伝ったりする。アフリカ出身の彼らは異口同音に「みんながとても親切にしてくれる」と言う。だが、初めは大勢で喧嘩するほどの不協和音だったそうだ。それがこんなに調和のとれた共同生活になるなんて…。

その映像を見ながら、もし私たちが誰かを引き取ったとして、きっとそれはエリトリアの人で、その人がもしももしも何かを盗んだとき、私はどう反応すべきだろう、などと考えた。知らないふりをしてずっと親切を続けて、いつか盗みを止めるのを待つのか、それともきちんと話し合うべきなのか…。でも、そもそもその人が盗むを働くという仮定を立てることからして、私はやっぱり彼らを色眼鏡で見ているのだろうか。

人は未知のものに対して不安感や恐怖感を抱く。それを取り除くにはまず「未知」を「既知」にすることだ。それはわかっているけれど、「時間がない」とか何とか言い訳をしている私には、それに必要な行動を起こす勇気がない。そういう意味でも、今、日本で声を上げる人が増えていることをとてもうれしく思う。