この世の生を考える

大仰なタイトルだ。あの世にも生があるのかどうか知らないけれど、この世の生にはとにかく限りがある。

昨年は義母が亡くなり、年末には長い付き合いのあった、私より若い人がこの世を去った。誰かがこの世からいなくなったり、いなくなりそうになったりすると、生をめぐるいろんな思いが飛来する。私たちは生きてもいるし、生かされてもいるし、生きさせてもらってもいる。歴史に残る偉大な、あるいは愚かな行いをした人もいれば、生まれてすぐに命を落とす子どもや毎日の暮らしに追われるうちに一生を終える大人もいる。過半数は私のように、気がついたら還暦を迎えていた、という人生なのかもしれない。

それでは、いったい何のための人生なのか。この世に生を受けたから、まずは親に命をつないでもらい、親離れをしたら自分で生き続けていく。なぜ生きるのかなど、考えもしない。それが普通の、当たり前のことなのだから。周りもみんな同じ。病気になったら早く元気になろうとし、元気になったら健康を維持しようと努力する。生きたいからそうするのか。ただ痛みや不調から解放されたいからそうするのか。

50歳を過ぎると、大病をする人が一挙に増え出す。どこまで発展するのかわからない医療の力が無ければ、お前たちの寿命は昔と変わらないんだよ、と言われているようだ。

私は長生きしたいとは思わない。でも、死ぬまで健康でいたい。と数年前、今はもう引退してしまったかかりつけの歯科医に言ったら、「人間、死ぬときはみんな病気よ」と返された。目から鱗。確かに、死ぬにはその理由がある。健康な人がばたっと死ぬことはない。

私がスイスに来た頃は、夫の祖父母も1人を除いて健在だった。今は祖父母はもちろん、夫の父母ももういない。そして、その代わりに義妹の子どもたちが成人し、もしかしたら数年後には親になっているかもしれない。世代が変わり、時代が移り変わることは百も承知の事実なのだけれど、人類がこうして脈々と子孫を残し、歴史を紡ぎ、未来に手渡してきたと改めて考えると、なんだかとても不思議な気がする。個々人はいつか消えてなくなるのに、人類は生き続ける。人類史上に何の功績も残さなかったかのように見える「その他大勢」も、いなくてはならない存在だった。その人を愛した家族や友人にとってだけではなく。

0 comments:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください