読むということ

スイスにやって来た前世紀末(!)ごろは、メディアと言えばもちろんペーパーしかなく、日経や朝日などの新聞はキオスクなどで買えたもののかなり高額で、日本の活字はとても貴重な存在だった。勤め先の日系企業でもらう新聞や雑誌、日本で買って持ち帰った書籍も友だち同士で回し読みしたものだ。一時帰国の際の飛行機の長旅では、無料で配布される日本の新聞が楽しみで、どの記事も隅から隅まで読み漁った。

今や、新聞も書籍もデジタルの時代となり、飛行機では新聞はもう配布されず、配布されたとしても私はもう映画ばかり見ていて、新聞にはちらりと目をやる程度かもしれない。日本の書籍も、以前は新聞で見かけた広告に食指を動かしては買い求めていたが、今ではほとんど買うことがない。

その理由の1つはおそらく翻訳業という今の仕事ではないかと思う。朝、事務机に座る前、その日のスケジュールに合わせて1時間なり2時間なりキッチンのテーブルでチューリヒの新聞に目を通す。その後もまた、翻訳という仕事をするからには何かしらの文章を読むことになる。通訳の仕事の前にも、その準備でいつも何かしらの資料を読む。読むという作業をしないのは買い物へ行っている間、食事の支度と食事中、後片付け、そしてTVで夜のニュースや刑事ものの番組なんかを見ている間だけ。文字に接している時間はかなり多い。そして、就寝前に20分なり30分なり、自分が読みたいと思って手に入れた本を読む。この時間は少し集中して読書できるが、朝の新聞やほかの雑誌をめくっているときは、この数年間あまり集中して読めなくなったような気がする。特に急ぎの仕事がなくても、何となく気がせく。こんなに読むことに時間をかけていられないといった気がする。画面で追う文字は、これまた集中して読みづらい。長い文章は紙に印刷して、腰を据えて読むようにしている。

読みたい本を読む時間があまりないため、ここ数年は1年に数冊あればこと足りるようになってしまった。新聞などで「あ、この本読みたいかも」と見つけたものをメモしておき、誕生日のプレゼントとして義妹や義母に買ってもらう。昨年はスイス文学賞やドイツ文学賞を受賞したKim de l’Horizonの『Blutbuch』と、実在した女スパイの活躍を追うという興味深いドキュメンタリーをおねだりした。Kim de l’Horizonはノンバイナリーで、私はこの本を読んで初めて彼らの深い苦悩を知った。たまに電車の中などで、上は背広、下はスカート姿のひげのおじさんなんかを見かけることがある。それまでは「ちょっとおかしな人」としか思っていなかったけれど、そうではないことを理解させてもらった1冊だ。言葉を含むさまざまな文化が土地を移動するにしたがって少しずつ変化していくように、性も男女の間でいきなりぱっと変わるのではないのだろうと思う。文化の異なる国へ車や列車で移動できるスイスにいると、そんな風に思う。

日本の書籍の方は、友人が貸してくれたり姉からもらったりするものがもうほとんど。そういう本はひょっとしたら自分では選ばないものかもしれないので、新鮮に感じることが多い。そして、日本の本を手に入れてしまうと、やっぱりドイツ語の本をほっぽり出してそちらになびいてしまいがちだ。先日、引っ越しをするから本棚を整理したいという人から一挙に何冊も日本の本を分けてもらった。当分は、今年の誕生日に義母からもらったシュテファン・ツヴァイクの『Schachnovelle』になかなか手が伸びないかも。

春から初夏にかけてはスイスでも雨が多い。風さえなければ、雨の日に歩くのも一興だ

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