書かずにはいられない体験

50歳を過ぎての初体験。と畜場の査察に通訳として同行させていただいたのだ。依頼をもらい、内容をちゃんと読まずに返事をしてしまったあと、少し後悔した。今からでも断ろうか、いや役人さんの訪問だからきっと殺すところなんか見ないだろう ― あれこれと考えをめぐらす日が続いた。私は肉はあまり好きではないけれど、人間は肉を食べる生き物だと思っているし、動物が私たちのためにどんな風に殺されていくのかを見ておくのもいいことだろう。そう思ってやってみようと決心した。

仕事の前の数日間、と畜場の様子をいろいろと想像してみた。というか、想像せずにはいられなかった。最初は目に見えるものをイメージしていただけだったが、牛の鳴き声も聞こえるだろうし、解体場では匂いもするはずだ。でも、死臭ではないし、どんな匂いだろう?生肉を扱うのだから現場はどちらかというと寒いはず……。足元も汚れそうだ。

こんな風にいろいろと考えたり、友達に話したりしているうちに、日本には「いただきます」という素晴らしい独特の言葉があるのに、私はもうそれを儀礼的にしか使わなくなっていることに気がついた。通訳に行ってクライアントと一緒に食事するときにはよく「Guten Appetit」って日本ではどう言うの?と聞かれる。そのときには、「Itadakimasu」と言うけれど、「Guten Appetitt」とは意味が全然違うのだということを説明する。そんな説明をしているくせに、私自身はもう何にも感謝をしていないということに気がついた。これからはもっと感謝の気持ちを込めて「いただきます」と言おうと思った。

さて、今回は前泊することになっており、夕方まずルツェルンのホテルへと向かった。チェックインを済ませ、エレベーターに乗って宿泊ルームがある階で降りると、日本人男性2人と外国人男性が1人、目の前に立っていた。クライアントのNさんとKさん、それにスイス側のRさんだった。一緒に部屋まで行く。「私、ちょっと緊張しているんです」と言うと「え、初めてなんですか?ショック受ける人がいるんですよね」と隣部屋になったKさん。そこにNさんもやってきて「初めて?ショック受ける人がいるんですよね」。むむむ。「お2人で全く同じセリフを言わないでください」。ちょっとビビりながら部屋に入って電気をつける。暗い……。今晩はもうちょっと明るい部屋で過ごしたかったなぁ。

翌日、まずと畜場に向かう車の中でNさんとKさんからレクチャーを受ける。だがその間、お腹に力が入らず、頭も何だかだんだんしびれてくるよう。本当に私に務まるんだろうか……。友人のベテラン通訳さんは断ったと言ってた。と畜場に着き、いよいよ現場に向かう。「なかなかきれいなところですね」というNさんの言葉に少し安堵。「査察は普通、小さく肉をカットする場所から始めて、逆戻りしてだんだん汚いところへ行くんです」。ああ、そのほうがいいな。と畜は最後!ところが、今日は搬入される牛の数が少なく、逆戻りするとすべての工程を見ることができない、つまりと畜自体を見ることができないという。で、私たちは結局牛と同じように工程を進んでいくことになった。むむむ。

まず、牛が搬入されるときには獣医が牛の健康状態をチェックする。今日の獣医は女性だ。スタンガンで気絶させるときにもそばにいるという。彼女を見て「ああ、女性も牛が殺されるところを見ているんだ」と思ったら少し気持ちが落ち着いた。自分より大きな牛の体を処理する解体場にも若い女性がいた。深呼吸はちょっとできないかなという生臭さが満ちている。手に液体石鹸の匂いが残っていたので、苦しくなるとそれを嗅いだ。でも、作業場は昨日のホテルの部屋より明るい。当たり前か。

ある友人がスタンガンのシーンは見るものじゃないそうよと言うので、気絶させるところと首をはねるところは見ないで済むようにしてもらった。みなさん思いやりのある方たちで、放血のシーンが見えそうになると、視界をさっと紙で隠してくださった。2軒目のと畜場で(ここでは通常通り、逆戻りで査察)、スタニングを避けて係留場である社員と話しながらほかの人が外に出てくるのを待っているとき、「解体場で問題なかったら、スタンガンもたぶん大丈夫でしょう」と言われた。Nさんにそう話したら、「たぶん放血が一番ショックじゃないかな」と言う。彼ら2人は獣医の資格を持っているし、しょっちゅう見ていることなのでぜ~んぜん何ともなさそうだ。食事もほぼ毎回お肉を食べていた。やっぱり慣れなのでしょうか。私も木曜日に仕事を終えて土曜日にはもうお肉をいただいていたけれど。

とにもかくにも、これまでで唯一「後悔するかな」と思った仕事を無事最後までやり終えることができて一安心。これまでのところ、夜うなされることもないし、一つ免疫が増えたかも。

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