親の存在

夜、なかなか寝つけないとき、バスの中でボーっと景色を見ているとき、あるいは翻訳をしているのだけれどなかなか集中できないときなど、ふと、いろんなこ とが頭の中へ飛来してくる。いま、ここにコンピュータがあれば(ペンと書けないところが哀しい)、こんなふうにまとめてみたいのになあ、などと思うことも 多い。

いまもドイツ語の試験用の本『アデナウアの時代』を読みながら、集中できずに、ふと、こんな思いにとらわれた。目の前ではコンピュータがうなっているので、我慢できずに読書を中断。

なぜかわからないが、いや、きっと今日が義母の誕生日で、さっきお祝いの電話を入れたせいかもしれない。

親を二親とも亡くしてしまったら―。

父が亡くなってから、もう10年以上が経つ。母は元気だ。母の母親、祖母も100歳 近くだが、元気なようすである。いまは母がいるから、私はなんとなく彼女に頼れる。それほどしょっちゅう連絡を取るわけではないし、日ごろの心の支えに なってくれているのは夫の方だが、親がいなくなると、心の奥底を支えてくれている柱がポッキリと折れてしまうような、自分のアイデンティティすら怪しく なってしまうような、なんだか世界が心もとなくなってしまうような、そんな気がしたのだ。子どものときと同じように甘えられる人がいなくなってしまう。自 分をこの世に送り出してくれた人がいなくなってしまう。だから、自分の存在までが危うくなりそうなちょっとした危機感みたいなものを感じてしまったのだろ うか。

いままで、そんなことはあまり考えなかったけれど、たった数分前、母親の存在を大きく感じた。その母も、まだ彼女の母親が健在であることで、どこかまだ安心していられるところがあるのだろうか。

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