月: 2004年10月

親の存在

夜、なかなか寝つけないとき、バスの中でボーっと景色を見ているとき、あるいは翻訳をしているのだけれどなかなか集中できないときなど、ふと、いろんなこ とが頭の中へ飛来してくる。いま、ここにコンピュータがあれば(ペンと書けないところが哀しい)、こんなふうにまとめてみたいのになあ、などと思うことも 多い。

いまもドイツ語の試験用の本『アデナウアの時代』を読みながら、集中できずに、ふと、こんな思いにとらわれた。目の前ではコンピュータがうなっているので、我慢できずに読書を中断。

なぜかわからないが、いや、きっと今日が義母の誕生日で、さっきお祝いの電話を入れたせいかもしれない。

親を二親とも亡くしてしまったら―。

父が亡くなってから、もう10年以上が経つ。母は元気だ。母の母親、祖母も100歳 近くだが、元気なようすである。いまは母がいるから、私はなんとなく彼女に頼れる。それほどしょっちゅう連絡を取るわけではないし、日ごろの心の支えに なってくれているのは夫の方だが、親がいなくなると、心の奥底を支えてくれている柱がポッキリと折れてしまうような、自分のアイデンティティすら怪しく なってしまうような、なんだか世界が心もとなくなってしまうような、そんな気がしたのだ。子どものときと同じように甘えられる人がいなくなってしまう。自 分をこの世に送り出してくれた人がいなくなってしまう。だから、自分の存在までが危うくなりそうなちょっとした危機感みたいなものを感じてしまったのだろ うか。

いままで、そんなことはあまり考えなかったけれど、たった数分前、母親の存在を大きく感じた。その母も、まだ彼女の母親が健在であることで、どこかまだ安心していられるところがあるのだろうか。

イタリア人がうらやましい

イタリア人がうらやましい  ―  と思ったことがこれまでに2回ある。

一度目は、もう10年くらい前のこと。夫と二人で、週一回、銀細工のコースに通っていた。そこにイタリア人の中年男性が一人いた。みんなもう長くこのコースに通っている人たち ばかりで、何も知らない初心者は私たちだけだったと思う。このイタリア人の彼はもうかなりのベテランのようで、あちこちで人の手伝いばかりしていて、自分 の作品はほとんど作っていなかったんじゃなかったかな。見たことがないような気がする。彼がいないと、作業室がし~んとしている。彼が登場すると、いきな り雰囲気がラテン系に早変わりする。大きな声で、ドイツ語の間違いなんか「知ったことか」って感じで、とにかくペラペラペラペラ。このとき思った。

「彼の10分の1でいい、あの気さくさが欲しい」

2回 目はホヤホヤの今日のこと。あるスーパーで柿を選んでいた。そう!うれしいことに、数年前からスイスでも柿(やっぱりKAKIという)がお目見えするよう になっている。出荷元はイスラエルやイタリア。というわけで、今度はイタリア人の女性が登場。こちらもやっぱり中年。小柄の、いかにもイタリア人らしいおばちゃんだった。

スイスで売られている柿には2種類あって、ブヨブヨに熟した柿とナイフで皮をむくことができる固めの柿。日本では同じ柿をブヨブヨに熟すまで待つのだと思うが、私の父はこれが好きだった。でも、私の好みは固め。そういう中から選んでいたら、脇から「Nein, nein(ダメ、 ダメ、そんなの)」という声がする。そして、その声の主はブヨブヨ柿のパックを手に取って「こっちがいいのよ!そっちはダメ!」というではないか。やっぱ りブロークンジャーマンで。私も対抗して「でも、私、固いのが好きなの」「いや、こっちの方がね、栄養満点なのよ。1個食べれば、卵1個分とおんなじ栄養を取れるんだから!イタリアじゃあ、もうこればっかり山のように食べるのよ」私はこの思いがけない会話にうれしくなってニタニタ笑いながら、それでもやっぱり固めを離さない。

こんなことはスイスでは稀である。みんな、まじめな顔をしてさっさと買い物を済ませていく。だから思った。

「私もこんな明朗さが欲しい」

ことばが多少できなくても、知らない人にも気楽に話しかける。この土地では、かなりむずかしいことである。

Kaki