いざ、ベルリンへ

去年から「行かねば」と思っていた。今年春に出版していただいた拙訳書『大事なことがはっきりするささやかな瞬間』に載せる写真を撮りに。去年は望みが叶わず、元同僚がたまたまベルリンへ行くというので、写真を撮って来てもらった。

今、また前進したり足踏みしたりしながらだけれど、この続編を翻訳しているところだ。こちらにも写真が必要なので、今回はぜひとも自分で❕と思い、今まで全く関心を示さなかった夫が突然一緒に行くと言い出したので、週末を利用して2泊で行くことにした。そして、昨日無事戻った。

まあ、ベルリンにたどり着くまでいろいろあったけれど、終わり良ければ総て良し。

Kastanienalleeにはしゃれた小さなカフェやレストランがいっぱい

テレビタワーから見ると、街区の違いがよくわかる。社会主義のなごりもあちこちに

今回の旅で思ったことは、街はとにかくホテルから出て自分の足で歩き、地下鉄に乗り、トラムに乗る!地図を見ていただけではやっぱり感覚がわからない。いつも海にばかり行っているので、久しぶりの見知らぬ都会は疲れ果てる場所だったけれど、いつか行ってみたいと思っていた場所だったので、まあ満足。スイスに比べれば、物価も断然安い。30年前まで、ここが恐ろしい壁で分断されていたのかと思うと、不思議な気がする。街並みはまったく統一感がなく、ばらばらな感じ。でも、ここはやっぱり他にはない歴史が詰まり、それを忘れたくないという空気が漂っている。

イーストサイドギャラリーの一番人気はやっぱりここ。人を写さずに絵だけを撮るのは至難の業。ここでは前の人の左腕が入った

今度は誰かの頭が……

今度こそ!と思ったけれど、また壁の前に人が立つ

それでもあきらめない!やっと誰も写っていない写真が撮れた

夏休み

チューリヒ州が夏休みに入って2週間が過ぎた。わが住宅街も、子どものいる家庭はどんどんバカンスに出かけていったようで、目の前の原っぱから子どもたちの姿が消えた。学校の校庭も閑散としている。雨の日でも雪の日でも、子どもたちは元気に校庭を走り回り、遊具で遊び、ワイワイとにぎやかなのに。そんな姿を見るたびに思うのは、原発事故の後、外で遊べなくなった子どもたちのことだ。被災者に心を寄せる人は、情報が全く入ってこないと嘆いている。苦しい、不安な毎日を過ごしているのに、心情を吐露できない雰囲気が漂っているというのは、二重の苦しみに違いない。みんな、それぞれの心配ごとを抱えて生きている。それなのに、社会が分断してしまうのは、とても悲しいことだと思う。

暑さのせいか、毎日、夕焼けが素晴らしい

日本は最近になってようやく夏らしくなった、とある人から聞いた。こちらは先週、また30度以上の日々が続いていた。庭の花たちの元気がなくなりかけたころ、待望の雨が降った。昨日の日曜日は1日中雨だったけれど、本当に恵みの雨だった。庭がなかったころは全然思いもしなかったけれど、毎朝花畑やハーブ畑を見て周る習慣がついた今は、気候への関心が増した。

雨は降らないのに、日本でもよく知られている山間の町ツェルマットは、先日洪水に見舞われた。連日の猛暑で氷河が大量に溶けたせいだ。今ですらもうこんな状態なのだから、数年後、数十年後はどうなっていることか。その前に義妹宅で家族が集まった際、温暖化や環境の話になり、中学生の甥っ子が「僕たちが生きている間はまだ何ともないからね」とふと漏らした。私はそれを聞いて「だから?何もしなくていいの?」と思わず声を大きくして言った。大人がみんな「そうだよ」と同意したので、甥っ子は黙ってしまった。今、ヨーロッパでは生徒たちが温暖化デモを盛んに行っている(今は夏休みで中断?)。私はこれを、頼もしくも、もしかしたらただのトレンドで終わってしまうのではないかと、ちょっと斜に構えて見ている。嫌な奴?でも、世界中で起こっている異変を見て怖くなるのは、私一人ではないはず……。

夏真っ盛り!

ウォークマンって何?

少し前、スイス国営テレビだったろうか、ウォークマンが発売されて40年というニュースを流していた。その中で、街を行く若者に「ウォークマンって何か知ってる?」と質問したのだが、知っている子は一人もいなかった。私たちの世代の青春時代(死語?)には、ウォークマンは今のiPodのように常に携帯され、耳にはイヤフォンが突っ込まれていた。たった40年でウォークマンに代わる製品が出てこようとは、あの頃いったい誰が想像しただろうか。

スイスではまだまだ一般家庭には普及していないけれど、日本では今や冷房のない家などないだろう。北海道はわからないけれど。ウォークマンからさらにさかのぼって、思いはなぜか保育園に通っていたころへ。お昼寝の時間になると、ビニール製の編み込みマットの上に子どもたちを寝かせ、保母さんが団扇を持って歩き回りながら風を送ってくれた。裸足の足の裏がマットにちょっとくっついては離れるときにぺりっと音がするのが好きだった。おばあちゃんが載せてくれた乳母車の車輪ががたごと鳴る音も。雨傘に落ちる雨の音。鯉に酸素を与えるためにこぽこぽと池に流れ落ちる水の音。懐かしい、やさしい音へと思いはさかのぼっていく。

週末によくジョギングに行くコースである日、若い子がイヤフォンをはめてジョギングしているのを見かけた。天気が良く、空からいろんな鳥の鳴き声が降っていた。森の中にいて、こんな素敵な自然の音色を聞き逃すなんてなんてもったいないと思ったけれど、考えてみたら、あの子くらいの歳の時には、私もきっといつもイヤフォンをはめて音楽の世界に浸っていたのだろう。

うちから眺める西の空は、毎日いろんな顔を見せてくれる

チャレンジはまだある

最近、ようやく翻訳ツールを使い始めた。翻訳会社から依頼される仕事の中で、今多くの割合を占めているのがチェック。以前、勤めていた会社でもずっと行っていたけれど、どこまで手を入れるべきか悩むことも多い。それに何より、私はやっぱりチェックより翻訳をしたい。最近の翻訳会社は、Tradosを使っていない人には翻訳の仕事をあまり出さない。そんなこんなで、私もようやくTradosを購入する決心をした。

産業翻訳をバリバリやっている人が聞いたら「えっ」と驚くかもしれない。「今ごろ?」と。私はバリバリやっていないので、これまでツールなしでも何となくやってこられた。出版翻訳では必要ないと言えば必要ないし。

Tradosは、自分で少し練習してから本番で使おうと思っていたけれど、そんな暇もなく、ぶっつけ本番で使うことになった。でも、翻訳会社の親切なサポートのおかげで、中身を壊すこともなく、何度か納品した。まだ知らないことはたくさんあるのだろうが、意外に使いやすく、それほど時間をかけずにまずまず使いこなしている。いずれはもっと活用できるようにしたいものだ。

雨の日の散歩

今春はまた、久しぶりに新しい翻訳書を出版してもらった。数えてみたら10年ぶりだった。本当は、福島原発事故関連の書籍を独訳して出版したいと思っていて、この願いが叶ったらまた和訳書に取り掛かろうと思っていた。でも、面白い本はそんな時機を見てはくれない。お世話になっている新評論にも気に入っていただいたので、3年以上かけてぼつぼつと訳していたものが、この春ようやく出版されるに至った。セールスもある程度自分でしなくてはならないのだけれど、私は昔から売るのが下手で、少々困り気味だ。面白いと思って、ほかの人にも読んでもらいたいから訳し始める。だから、少しでも多くの人に読んでもらいたいのに。

水に映った黄色い花がなんとなく幻想的でカメラを取り出した

GWも休暇も終わり

忙しかった、今回の帰国。いや、いつもかな。

GWの始まりとほぼ時を同じくして羽田に降り立ち、その日の夜に以前大ファンだったチューリップのコンサートへ行った。まさか、もう一度行くことになるなんて思ってもいなかった。財津さんの声は出にくそうだったけれど、もう安部さんはいないけれど、そして吉田さんも戻ってこないけれど、私の大好きな曲を、知られざる名曲を、あのときのまま、いくつも聴かせてくれた。3時間近くも楽しませてくれた。あの懐かしい、甘酸っぱい気持ち。音楽って不思議だ。

その後は、甥っ子の結婚式。微笑ましい結婚式だった。新郎新婦の思いがよく伝わってきた。これからもいろんな悩みに襲われるだろうけれど、みんなみんな、幸せになって欲しい。残るは、妹の息子たち。楽しみはまだある。

そして、やっぱりもう一度行くことになるなんて思ってもいなかったグアムでの休暇。日本から意外と近いことがわかったので、実家をバタバタと後にして南へ向かい、強風に吹かれ、30度以上の灼熱にさらされてきた。前回行ったのはもう40年も昔の話。あのときは、夜、友だちと二人でハンバーガー屋に入ったら、周りが巨大な黒人ばかりでちょっと怖い思いをした。今回行ってみると、見事にアジア人ばかり。お店の看板も日本語やら韓国語やらで書いてある。ここがアメリカだということを忘れてしまいそうになるほどアジアがあふれていた。

でも、海は思っていた以上に美しかった。北のリティディアンビーチは車がないと行けないこともあり、人影もまばら。喧騒を避け、私たちはほとんどの時間をこのビーチで過ごした。裸眼でもサンゴや熱帯魚が見える。

そしてもう一つ、あっ!と思ったことは、これ。

そう言えば、そんなセンセーションがあった。そう、彼はグアムのジャングルに28年間も潜んでいたのだった。そのときの洞窟が今も残されていて、それを実際に見たときはいろんな思いが飛来した。たった一人で、逞しく、そしてそれなりに身だしなみを整えながら、生き続けた人。

グアムの歴史も簡単に紹介されており、初めはスペインに、そして日本、アメリカと、強国の支配下で生きるしかなかったこの小さな島に、わずかの時間思いを馳せた。