あり過ぎると困るけれど、なくなると寂しい……

数えてみたら、もう1カ月近くも雪が積もったままだった。きっと30~40センチは積もっていただろう。記録的な降雪だ。庭のラベンダーもハーブも、長い間、雪の下にすっぽりと埋もれたままだった。目の前はとにかくどこを見ても雪野原。スノーシューズやノルディックスキーを楽しむ人、子どもをそりに載せて引っ張る人、馬に紐でスキーをつないでホーススキーをする人など、窓から見える風景は普段とまるで違っていた。

ひざ下までごぼごぼと沈むので、コンポストまでたどり着けなくなった。ルーシャにとっては巨大な雪の壁だ。ほとんどうちから出ることなく、バスルームに置いたままにしてある猫トイレをまた使うようになった。せめて、うちの周りだけでも歩けるようにと、シャベルを取り出して初めて雪かきに挑戦。コンポストまでの1メートルくらいと、東側のテラスから北側を通って西側へ10メートル弱だろうか、雪をかき分けかき分け、小道を作った。庭仕事用のスチールのシャベルなので、雪がシャベルにくっついて重くなる。いちいち雪を手で振り払わないといけない。帽子、手袋、マフラー姿だと汗が出る。手や腰が痛くなる。雪かきって、こんなに大変な作業なんだ。でも、ルーシャのためにえんやこら。30分くらいシャベルを使っていただろうか、終わってルーシャに見せると、早速歩いていた。

かなり深い雪をどけて道を作ったのに、夜からまた雪が降り出した。でも、ルーシャは何とか歩けるよう。それでも、歩けるのはこの辺だけで、いつもネズミを捕りに行く向かいの野原はまだ一面深い雪に覆われている。私もウォーキングの回数が減った。気温も低かったので、凍った路上を歩くのも怖い。

一昨日くらいから気温が上がり出し、降雪が降水に変わった。あれだけ積もっていた雪も1日経つとかなり減る。雪解け水に雨が加わり、洪水の被害が出ているところもある。

この週末も雨。土曜の朝、雨が降り出す前に、久しぶりに隣村の森の中を歩いてきた。村の中でも目にしたけれど、何十センチも積もった雪の重みで枝や木が倒れている。

この森では、樹冠から1メートルくらいの部分が折れてあちこちに落下していた。森の所有者らしい人が、電動のこぎりを片手に森の中を見回っていた。傾いた木や折れた枝がとても多い。被害は甚大だろう。

もう春の鳥の鳴き声が聞こえている。雪はまた降るのだろうか。

十四夜の散歩

我が家はケンカは少ない方だと思う。それでも、やっぱり夫婦で互いに腹立たしい思いをすることがある。私は亡父に似て、怒ると話せなくなる。もやもやした気持ちで一緒にソファに座り、黙ってテレビを眺めているのも嫌なので、私は仕事部屋に引きこもったり、一人で散歩に出たりする。

先日も夕食時にちょっとした諍いになり、洗い物を済ませてから一人家を出た。夜は冷えると思い、ヒートテックを着込み、厚いコートに帽子、そして手袋をはめた。

外に出ると、明るい。近所の多すぎるほどのクリスマスイルミネーションのせいかと思ったけれど、空を見上げると満月に近いお月様が煌々と辺りを照らしていた。これなら、夜道の一人歩きも怖くなさそうだ。いつも歩く野道へと向かう。影ができるほどの明るさの中、速足でどんどん歩く。ときどき空を見上げ、星を仰ぎ見る。モミ林のシルエットが美しい。

夏ならまだジョギングしたり犬の散歩をしたりする人がいそうだが、4時半ごろに日が没する今の時期に畑道を歩く人はいない。林の外れに差し掛かり、空が暗くなるとちょっと怖い。野道に別れを告げて、農家の間を抜け、車道に出た。馬が二匹、外に出ていた。白っぽい方の馬が私を見ている。そばに寄って、しばらく見つめ合う。何だか悲しくなり、涙が出た。今年あったいろいろな出来事、まだ終わっていない出来事が心の中に折り重なっている。ときどき、そういうものを吐き出さないと。

「もう行くね」と声をかけてまた歩き出す。センターラインもない細い車道は一台も車が通らないまま。静かな夜。風もなく、歩いていると暑いくらいだ。村の中心を抜けて駅まで歩き、1時間半経った頃に家に戻った。

色彩豊かな秋

今年の秋は紅葉や黄葉がとても美しい。散歩やウォーキング中は、トンビやサギが滑空する広い空を眺め、少し目を下ろしてさまざまに色づいた木々を楽しみ、すっかり収穫が終わってまっ平らに広がる畑の茶色や、朝晩はすっかり冷え込む今でも意外とみずみずしい牧草地の緑に目を休める。

 

日本の紅葉や桜の細やかな美しさとはまた違う、おおざっぱながらも芸術的なグラデーションに思わず目を奪われる光景だ。

積み重なる落ち葉の上を、わざとかさこそと音を立てて歩くのも楽しい。生えている木の種類によって、道に落ちている枯れ葉の色も違う。

暗い森の縁には苔がむし、間から小さなキノコが顔を出している。

街中の塀にも秋はある。深緑のつたに絡まる鮮やかな紅。こうして思うと、春の穏やかな色とはまったく装いが違う。夏のエネルギーを思い切り吸い込んで、それを最後に吐き出しているのだろうか。

そして、極めつけがこれ!いつも何かと気の利く贈り物をしてくれる友人が、昨日そっと郵便受けに入れておいてくれた。実家の庭でもあの心地よい香りを放っていた、金木犀。今では、スイスでも手に入る。2年前、一度「香りを楽しみにおいで」と友人が呼んでくれた。去年は機会を逃し、今年はどんな具合だったのかなぁと思っていたら、それに呼応するようにこのかわいい小瓶が届いた。香りはすぐに薄れてしまいそうだけれど、思いがけなく色も姿も楽しめて鼻腔のみならず心までくすぐられた。

エンガディンの1週間

コロナの心配もまだ拭いきれない中、休暇用アパートをやっとのことで見つけて、大好きなエンガディンで1週間、夫と2人で頭と心を休めてきた。でも、それももう2週間以上前のことだ。もうすぐ秋休みが始まるので、今アパートを探すのはもっと困難だろう。人との接触を避けて、みんなアパートに泊まりたがるよう。

休み前の予報では、エンガディンの天気は今ひとつだった。確かに曇り空に覆われたり、雨に降られたりもしたけれど、思ったより好天に恵まれて、宿泊場所のシュクオール(Scuol)の周辺をてくてくと歩き回ることができた。

建物に施されたスグラフィットの装飾が美しい村々は、シュクオール周辺にいくつも点在する。どの村もイン川が流れる谷間から少し登ったところ、標高1000メートルちょっとのところにある。村から村へ通じる古い野道を歩いていると、どうしてこんなに高いところに村を作ったのだろうと疑問がわく。夫は「攻めにくいからじゃないか」と言う。

ところが、標高2000メートルくらいまで上り、その高さで谷を見下ろすように歩くと、村の位置はそれほど高くないと感じる。村から上にもまだまだ山はだが延びているのだ。見る位置、立つ位置によって、その比が大きく変わる。

今回はハイキング休暇だったけれど、私にはもう一つ、とても大切な目的があった。それは、去年テレビでふと目にした老齢のグラウビュンデンの画家、コンスタント・ケンツの作品を実際に見ることだった。

…とここまで書いて中断。いきなり忙しくなって、10日間くらい手を付けられずにいる間に、スイスのコロナ状況は激変し、感染者数が急上昇してしまった。もう秋休みも終わりに近い。終わった州もある。気温がぐっと下がって、帽子や手袋も必要なほどだ。コロナ疲れとこの気候の変化のせいだろう。

さて、話を戻してケンツさん。もう90歳を過ぎているからなのか、最近は展覧会を催していないようだ。彼はグラウビュンデン地方の建物にたくさんのスグラフィットを残し、公共の建物などの内部に壁画を描き、キャンバスにも抽象画を描いている。

ケンツさんが住むZuozの村の教会にある「命の木」のステンドグラス

できるなら彼のアトリエを訪ねて絵画を見せてもらいたいところだったけれど、そんなことができる状況ではないので、スグラフィットや外壁の装飾画を探して眺めるだけに終わった。それでも、実物を見ることができて、久しぶりに幸せなカルチャー的瞬間を味わった。建物を探しながら村中を歩く私に付き合ってくれた夫に感謝。

Ardezの村にある一般家屋。探し当てられた!

これは彼だけの作品か、弟との共同作品かと思われる。こんな家に住みたいなぁ

広い空の下で感じること

2月の母の誕生日から、毎週3回1時間のウォーキングを始めた。ときには雪が降りしきる中を歩いたあの頃から、不安の中、それでも菜の花畑や青葉に目を細めながら、真夏のような暑さの中を歩いた春も過ぎ、暑さをしのぐために早朝、ひまわり畑の中を歩く夏も終わりに近づいてきた。

この半年間で、ロックダウンのせいだろう、散歩やジョギング、サイクリングをする人が増えたのがよくわかった。そして、「おらが村」は牧場や畑、森、湖、小川がたくさんあり、歩くにはもってこいの場所だということも。今では、いくつか歩くルートが決まっている。大空に、カラスはもちろんコウノトリやトンビ、つばめもたくさん見かけるし、湖に行けば魚が跳ねたり、カエルの合唱が聞こえてきたり。農場にいる仔牛はいつも私が歩くのをじっと見ている。ときには、牛の鳴き声リレーも聞けたりする。

畑には、リンゴやナシなどの果樹、フェンネル、ネギ、ブロッコリー、トウモロコシ、その中に立つ案山子、それから東欧から出稼ぎに来ていると思われる、私と同年齢くらいの男性たちが朝早く野菜を収穫している姿。

彼らを見ていると、ちょうどこの年齢くらいで亡くなった父を思い出す。まだまだ働き盛りとは言え、暑い日差しの中、何時間も腰を曲げて立ったままの労働はきついだろう。真珠養殖をしていた父も、重労働に汗を流していた。私がスーパーや八百屋でふと手に取る野菜や果物は、人間の手で一つひとつ収穫されているのだと、やっと気がついた。収穫が終わると、その畑は耕され、また何か苗が植えられる。そんな風景を見ていて、自分が少し人間らしくなった気がする。

そして、毎朝、毎夕、東に西に太陽を眺め、姿を変えていく雲を眺め、夜は星空を眺めながら、こういう環境にいられることをとても贅沢なことだと思う。