でも、悲しいの

昨日、チューリヒの街に出て、普段あまり利用しないスーパーで久しぶりに買い物をした。入ってすぐの青果売り場で、街中にしては珍しく高齢の女性と男性が二人で立ち話をしていた。「こんな場所でも知り合いに会うんだ」と二人を横目に見ながら果物を選び、そのまま奥に進んだ。

最後にカッテージチーズを買わなくちゃと、ちょっと戻って乳製品の並んでいる冷蔵庫へ。ちょうどカッテージチーズが置いてある場所に老婦人が一人立って、ミニサイズを手に取って眺めていた。私が隣に並ぶと、「ちょっとごめんなさい。これ、なあに?」と聞く。カッテージチーズはドイツ語でヒュッテンケーゼというのだが、このミニサイズは英語でカッテージチーズと書かれている。で、私がそれを説明したところ、そこから「あなた中国人?」とか「何年くらい住んでるの」とか「お仕事は?」とか、話が個人的なことに及び始めた。次の電車の時間までまだ20分くらいあったので、しばらく彼女の話し合い手になっていた。すると彼女は、「あなた、とっても親切ね」と私をじっと見る。そして、「でも私、悲しいの」とうつむく。10分くらいの会話の間に、たぶん5回くらいはそう言っただろう。何が悲しいのか、聞こうと思っても、次の質問が飛んできて、結局理由は聞けなかった。そろそろ電車の時間も近づくと思い、「じゃあ、そろそろ失礼します。よい一日を」と言いながら、彼女の肩にそっと手を置いた。そのときの彼女の驚いた表情が忘れられない。

あの人は、青果売り場で男性と話していた高齢の女性だったと思う。何かの病気を患っているのかもしれない。寂しくて、毎日、近くのスーパーへ行っては話し合い手を探しているのかもしれない。

家に帰って、夫にこの話をしたら、「この村では、そういう人はきっと見ないだろうね」と言う。そう、たぶん、見ないだろう。森の中に一人きりでひっそりと住むより、大勢の人間が住む大きな町で話し合い手もなく住む方が、孤独は深い。

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