太極拳から人生を思う

太極拳を始めたのは、このアパートに引っ越してきてから。だから、7年前。最近になって、ようやく太極拳の何たるかがわかってきた、と自分では思ってい る。翻訳は10年くらいかな。やっぱり7~8年経って、ようやく翻訳の何たるかがわかったような気がした。でも、これはわかっただけで、それに到達するに は全然至っていない。いつになったらその日が来るのか、私の人生が終わるまでには間に合わないんじゃないかという気がしている。

人の人生も同じじゃないのかな、と最近思う。40歳を過ぎて、ようやく人としての生き方、あるいは自分の生き方がわかってきたような気がする。それが本当 だとして、それをなんとなく理解するまでに40年もかかった。それを今度、自分の中で消化して、人の人生というもの、自分の一生というものに納得する。納 得できるようになった頃には、もうそろそろ人生にさよならをしなければならない。自分が得たものを、やっとこれから次の世代にきちんと伝えられるように なったかなと思うときには、もう最後の一呼吸をしているのかもしれない。そう思うと、人の人生って本当に短い。私は、翻訳を続けられるのだったら、100 歳までも200歳までも生きたいと思う。これが私の生き方みたい。200歳まで翻訳を続けたら、少しは素敵な翻訳ができるようになっているんじゃないかし ら。それとも、もう頭が時代遅れになっているかな。

多分、小学生の頃。姉と二人で死んだらどう処理して欲しいか、ということを話していた。私は絶対「火葬」。その頃、「うしろの百太郎」とかで怖い話をたく さん読んでいた。土の中で生き返って、「もう一度死ぬ」なんてごめんだもの。姉は、ミイラにして、なんて言っていた。それがお正月だったので、そばにいた 母から「お正月早々何言ってんの!」と怒られた。

ここスイスでは、お年始もお雑煮も、御節も隠し芸大会も何もない。今日も普通の日曜日みたいだ。でも、母がこのエッセイをいま読んだら、やっぱりちょっと怒るかもしれないなあ。「もっとおめでたい話を書きなさいよ!」なんて。

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