犠牲者の無念

義理の妹がママになった。仲のいい友人がもうすぐ結婚する。夫の再就職が決まった。

と、楽しいニュースに喜び、クリスマス気分に浮かれていたところに、東南アジアを襲った津波のニュース。

-今度は日本じゃないけど、やっぱりアジアか-と思うだけではすまなかったこの被害の大きさ。テレビのニュースでも新聞でも、目に映るのは無数の死者と荒れ果てたリゾートパラダイスばかり。映像がなければ、遠く離れた場所にいる私たちには、この被害の規模は想像不可能に違いない。悲しい風景に心は曇るばか りだ。こういう風景を食卓で見ていていいものかどうか、私にはわからない。見るたびに、目頭が熱くなる。胸にズキンと痛みが走る。

事故やテロなどで大勢の犠牲者が出ると、マスコミは先を争うようにその事件を報道する。そういう時、夫がよく言うのが、「どうして数が多いとそんなに騒ぐ の。死者が一人でも同じじゃないか」そう、人の命の重みはみな同じ。一人だけが亡くなっても、その人の身内や知人にとっては限りなく悲しい。

今回のように多くの国で多国籍の人々が何万人と犠牲になっているのを「見る」と、その無残な力の巨大さに圧倒されて悲しくなる。いろんな環境にいた人々が、あっという間に、きっと何がなにやらわからないまま大量の水に飲み込まれて、数時間後には硬い死体となってあちらにもこちらにも横たわっているのを 「見る」と、同じ「人」に属する一人として、「こんなことがあっていいのか」という信じられない思いに胸を突かれて悲しくなる。無数の犠牲者の無念を感じるのかもしれない。

ところで、タイで被害を免れたスウェーデンのある男性が、「人類はまだ自然をコントロールできないでいる」と言っているのを新聞で読んだ。彼は本気でそんな日が来ると思っているのだろうか。

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